まなひろ

【平津児童館】約30年前の思い出


4歳から小学2年生まで、岡山・倉敷に住んでいました。

本田裕之です。(旧姓:木村)

数年前に岡山へ旅で行った事があるのですが、

その時は、平津児童館は、廃墟化していた様子でしたので、

とても悲しく思っていました。

今日、おもむろに「平津児童館」を調べてみると、

復活していたのに、嬉しく驚いています!

 

1986年頃から平津児童館に毎日のように通っていました。

自宅に帰る事、居る事が、できなかった時です。

 

よく児童館の屋根の上に、ドッジボールを投げて、落ちてくるボールをキャッチして遊んでました。

砂場で、一人で黙々と数時間遊んでいた事が多々ありましたが。

後は、竹やぶに入って遊んだり、桃狩りに行ったり、

山へ遠足に行ったりしました。(あの当時、まだ桃ケ丘小学校が新設された頃でした。)

 

一番怖かったのが「雷」ですね。

瀬戸内海の気候だからでしょう。

雨が全く降らずに、「雷」がピカピカ光って、落ちる。

避雷針って、あの当時なかったような気がしますが。

 

大きな木が、バリバリと割れてビビった事がありましたね。

栗がいっぱい落ちている神社のところです。

 

歳が違う子たちが多く、それぞれの子の事情は少し耳にしていました。

 

私もその一人ですが。

 

児童館で遊んだ後は、友達の家で夕ご飯をご馳走になる事が多々ありました。

その当時、自宅に帰りたくなかった理由がありましたからね。

夜空は星でいっぱい。じっと見ていたら、いつの間にか寝ていて。。

 

朝を迎えて、平津小学校へ登校してました。

 

その当時、児童館で一番思い出深いのが、「オルガン」です。

大部屋に「オルガン」があって、いつもなにか奏でていました。

足を上下に動かしながら、両手でオルガンを。

 

一人で没頭していた時間でした。

 

後は、牛乳パックで三次元ブロックをたくさん作って、「この形できるかな?」というプリントを観ながら、

作成していたのを覚えています。

 

百何通りあったのですが、1年間ぐらいかけて、全て「合格」しました♪

お陰様で、今は立体を頭の中でイメージする事が、簡単にできるようになっています。

 

これも、一人で没頭していましたね。

 

「サッカー」や「野球」、「卓球」はダメでした。

球技はどうもダメみたいです。

それで、「水泳」をはじめるきっかけになったのも、平津児童館があったお蔭です。

 

あの少年時代に平津児童館に通えた事、感謝しています。

2018/2/3 本田裕之

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「医療・教育」を通して10年以上現場で活動している。個別指導には定評があり、学習とカウンセリングを組合せながら授業をするのが得意。不登校の子や障がいをもっている子等、区別せず「人と人が向き合ってお互いを認め合う」教育方針で教育活動を続けている。親御さんから電話を受けカウンセリングを行い、次につなげるスモールステップ方式で成長を長いスパンで見守るのを重視している教育者。

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