まなひろ

「あたりまえ」と自分自身で思っていませんか?


悲しい現実を受け止め、それで葛藤する人々。

何も起こらないとわかっているのだけれども、

安心できずに、日々の環境に我慢する人たち。

愛をもって接していても、枯渇した器には、

穴が開いており、なかなか埋める事ができない。

何かが消えてしまったと思っていても、

それが、何かの始まりとなって生きていく。

こんなサイクルに押し込められてしまうのだから、

生きる意味を問わずに、息の根を自ら切ってしまう人々もいる。

人の為と書いて「偽」というけれども、

生きていくうちに、愛を与えていくうちに、人は強くなり、

「偽」が消えていくのだと私は信じている。

喜んで、悲しんで、楽しく生きている。

確かに、育った環境によって、周囲が気持ち悪いと感じる事もあろう。

ただ、その当事者にとっては生きている意味というのは、

自分自身が一番わかっているに違いない。

生きている事、それがどんなにもつらくても、

自分自身にしかわからないことは多い。

母子家庭がなんだというのか。父子家庭がなんだというのか。

私自身、小学2年生の時に父親に刺され、母子家庭の道に行く事になってしまった。

一人っ子はいいよね。とよく言われるけれども、

母子家庭の一人っ子はわけが違う。

なにもできない自分自身への苛立ちがずっとずっと心の中で

わんさかわんさか出てくるのだ。

精神科医はいう。

「人は同じ事を繰り返す生き物だと」

じゃ、病気になったり心に傷ついてしまった人たちとは、

どうなるというのだろうか。

ずっとその子どもも同じ病気を歩むということなのか。

どこのだれかの精神科医が言ったからといって、

それを鵜呑みにしてほしくない。

子どもたちよ。大人たちよ。

全ての人たちよ。

生きているだけでなんぼだと思う。

生きる事だけで幸せなんだ。

「有難い」は有る事がなかなか難しいと書く。

その反対語は、なにかしっている?

それは、

「あたりまえ」

生きててあたりまえなの?

勉強できてあたりまえなの?

そんなことできてあたりまえじゃない?

と、あたりまえという言葉は私にとって苦手な言葉だ。

些細な事でも「ありがとう」と言える人間になりたい。

そう言える「人」を育てていきたい。

家庭教師・本田裕之

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「医療・教育」を通して10年以上現場で活動している。個別指導には定評があり、学習とカウンセリングを組合せながら授業をするのが得意。不登校の子や障がいをもっている子等、区別せず「人と人が向き合ってお互いを認め合う」教育方針で教育活動を続けている。親御さんから電話を受けカウンセリングを行い、次につなげるスモールステップ方式で成長を長いスパンで見守るのを重視している教育者。

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